創薬プロセスにおける初期指標改善と
全体成功確率の非同定性に関する数理的証明
序論および定義
量子計算やAIによる初期指標(結合親和性など)の改善は、直ちに創薬全体の成功を保証するものではない。本稿では、この断絶を数理的に可視化し、成功を主張するために不可欠な条件を定義する。 創薬プロセスを一連の離散的な直列フィルタリングとして定義し、その数学的基盤を以下に構築する。
以後、段階 $k$ までの「初期部分」確率空間を $(\Omega_k,\mathcal{F}_k,P_k)$ と記す。ここで $\Omega_k:=\Omega$ とし、$P_k$ は $P$ の $\mathcal{F}_k$ への制限とする。また、初期段階で観測されるKPIやスコア等の指標を $\mathcal{F}_k$-可測な確率変数 $M: \Omega \to \mathbb{R}$ とする。
- (初期部分の固定):$\mathcal{F}_k$ 上の同時分布(特に $M$ および $A_1,\dots,A_k$)を不変に保つこと。本定義は定理1において、初期情報の固定が後段の成功確率を拘束しないことを示すために用いる。
- (指標期待値の改善):ある母集団分布 $\mu$ を固定した条件下で、指標 $M$ の期待値 $\mathbb{E}_\mu[M]$ を増大させる操作。本定義は第3節の選抜バイアスの議論に供される。
主要定理:初期改善と全体成功の非同定性
「初期指標 $M$ の改善が全体成功確率 $P(S)$ の改善を必然的に伴う」という論理が成立しないことを示す。以下の定理は、初期段階の確率構造を完全に保存したまま、全体成功確率を任意に操作可能であることを保証する。
- (分布の保存)任意の $E\in\mathcal{F}_k$ に対し $\widehat{E}:=\pi^{-1}(E)$ と置けば、$\widetilde{P}(\widehat{E})=P_k(E)$ が成立し、 pullback された初期指標 $\widehat{M}:=M\circ\pi$ の分布は $M$ と一致する。
- (自由な成功確率)全体成功事象 $\widetilde{S}:=\bigcap_{i=1}^n A_i$ は次を満たす: \[ \widetilde{P}(\widetilde{S}) = q \cdot P_k\left(\bigcap_{i=1}^k A_i\right) \]
選抜バイアスによる逆説(Goodhart's Law)
次に、初期指標 $M$ に依拠して候補を選抜する動的なプロセスを考察する。ここでは「指標の改善」が、むしろ最終的な成功確率を毀損するパラドキシカルな状況を厳密に示す。
Baseline: $m(G)=0.9, m(B)=0.8 \implies \theta^\star=G$ ($s=1$)。期待値は $0.85$。
Improved: $m'(G)=0.9, m'(B)=0.95 \implies \theta^\star=B$ ($s=0$)。期待値は $0.925$。
ゆえに、集団全体のスコア改善は選抜後の成功確率の向上を保証しない。 □
ボトルネック補題
条件付き肯定性:成功のための必要十分条件
これまでの議論は、無条件な「成功の保証」を否定するものであった。しかし、特定の数理的構造が仮定される場合においては、初期指標の改善は正当化される。以下に、成功を主張するために必要な「正の命題」を提示する。
この定理は、「量子手法が有効である」と主張するための最低限の数理的要件(ゲート)となる。
監査プロトコル:PASS/FAIL基準
以上の定理群より、初期指標の改善が全体成功率に寄与するための要件は、以下の3点の監査項目(Checklist)として厳密に定義される。これらは、技術導入における「成功」を主張するための必須条件である。
A: 同定監査(Identification Audit)
初期指標 $F_k$ と下流成功 $S$ の間に、統計的因果関係または構造的な結合が明示されているか?(定理1の非同定性を回避する条件)
B: Goodhart耐性監査(Robustness Audit)
指標の最大化(スコア最適化)を行った際に、下流成功率が毀損される「逆転領域」を排除する制約条件が組み込まれているか?(定理2の回避条件)
C: 上界監査(Bottleneck Audit)
計算速度ではなく、プロセスの成功率を律速している「ボトルネック段階」に対し、提案手法が具体的にどのような量的突破($\epsilon$ の改善)をもたらすかの実測値があるか?(補題のクリア条件)
監査の結語
量子計算が創薬“全体の成功率”を押し上げると主張するには、(i) 同定、(ii) Goodhart耐性、(iii) 律速上界の突破、の3条件が必要である。これらを満たさない主張は一般化であり、本稿の範囲では支持できない。一方で、これらの条件を満たす設計・実測が提示されるなら、量子手法は“局所KPI”ではなく“成功率”への寄与として主張可能になる。
参考文献
- [1] Skalse, J., Howe, N. H., Krasheninnikov, D., & Krueger, D. (2022). Defining and Characterizing Reward Hacking. arXiv preprint arXiv:2201.07683.
- [2] Zhuang, S., & Hadfield-Menell, D. (2020). Consequences of Misaligned AI. Advances in Neural Information Processing Systems (NeurIPS), 33, 15763-15773.
- [3] Karwowski, J., et al. (2024). Goodhart's Law in Reinforcement Learning. International Conference on Learning Representations (ICLR).
- [4] Hennessy, J., & Goodhart, C. (2023). Goodhart's Law and Machine Learning: A Structural Perspective. International Economic Review.
- [5] Andrews, I., Kitagawa, T., & McCloskey, A. (2024). Inference on Winners. The Quarterly Journal of Economics, 139(1), 31-75.
- [6] Zrnic, T., & Fithian, William. (2024). A Flexible Defense Against the Winner's Curse. arXiv preprint arXiv:2211.05051.
- [7] Schuhmacher, A., et al. (2025). Benchmarking R&D success rates and drug development costs: A look at FDA approvals (2006–2022). Drug Discovery Today.
- [8] Sun, D., et al. (2022). Why 90% of clinical drug development fails and how to improve it. Acta Pharmaceutica Sinica B, 12(7), 3049-3062.
- [9] Amorim, M. J., et al. (2024). Advancing Drug Safety in Drug Development. Chemical Research in Toxicology.
- [10] Zinner, M., et al. (2021). Quantum computing’s potential for drug discovery. Drug Discovery Today, 26(7), 1680-1686.
- [11] Quantum Machine Learning in Drug Discovery. (2024). ACS Chemical Reviews. DOI: 10.1021/acs.chemrev.4c00678.
- [12] Billingsley, P. (2012). Probability and Measure (Anniversary Edition). Wiley.
- [13] Durrett, R. (2019). Probability: Theory and Examples (Vol. 49). Cambridge University Press.