創薬プロセスにおける初期指標改善と
全体成功確率の非同定性に関する数理的証明

GhostDrift数理研究所
Abstract
本稿では、創薬プロセスを確率空間上のフィルトレーション付き確率過程として定式化し、「量子計算等による初期段階の指標(スペクトル、結合エネルギー等)の改善が、創薬全体の成功確率の向上を論理的に含意する」という通説的な主張が、条件を明示しない限り論理的に演繹できないことを厳密に証明する。本稿は単なる否定に留まらず、その数理的証明過程から導かれる、量子計算等の新技術が創薬成功率に寄与するために満たすべき「検証可能な監査条件(Audit Protocol)」を提示することを目的とする。具体的には、非同定性定理およびGoodhart's Lawの数理的帰結に基づき、成功を主張するための必要条件(PASS/FAIL基準)を導出する。

序論および定義

量子計算やAIによる初期指標(結合親和性など)の改善は、直ちに創薬全体の成功を保証するものではない。本稿では、この断絶を数理的に可視化し、成功を主張するために不可欠な条件を定義する。 創薬プロセスを一連の離散的な直列フィルタリングとして定義し、その数学的基盤を以下に構築する。

創薬プロセスとフィルトレーション
確率空間 $(\Omega, \mathcal{F}, P)$ 上において、創薬の各段階 $i=1, \dots, n$ における合格事象を $A_i \in \mathcal{F}$ とする。 第 $k$ 段階 ($1 \le k < n$) までの情報を表現する $\sigma$-加法族(フィルトレーション)を次のように定義する。 \[ \mathcal{F}_k := \sigma(A_1, \dots, A_k) \subset \mathcal{F} \] 創薬全体の成功事象 $S$ は、全ての段階における合格事象の積事象として定義される。 \[ S := \bigcap_{i=1}^n A_i \]

以後、段階 $k$ までの「初期部分」確率空間を $(\Omega_k,\mathcal{F}_k,P_k)$ と記す。ここで $\Omega_k:=\Omega$ とし、$P_k$ は $P$ の $\mathcal{F}_k$ への制限とする。また、初期段階で観測されるKPIやスコア等の指標を $\mathcal{F}_k$-可測な確率変数 $M: \Omega \to \mathbb{R}$ とする。

本稿における「改善」の定義
本稿では、議論の文脈に応じて「改善」を以下の二態様に区別する。
  • (初期部分の固定):$\mathcal{F}_k$ 上の同時分布(特に $M$ および $A_1,\dots,A_k$)を不変に保つこと。本定義は定理1において、初期情報の固定が後段の成功確率を拘束しないことを示すために用いる。
  • (指標期待値の改善):ある母集団分布 $\mu$ を固定した条件下で、指標 $M$ の期待値 $\mathbb{E}_\mu[M]$ を増大させる操作。本定義は第3節の選抜バイアスの議論に供される。

主要定理:初期改善と全体成功の非同定性

「初期指標 $M$ の改善が全体成功確率 $P(S)$ の改善を必然的に伴う」という論理が成立しないことを示す。以下の定理は、初期段階の確率構造を完全に保存したまま、全体成功確率を任意に操作可能であることを保証する。

拡張による非同定性
$(\Omega_k, \mathcal{F}_k, P_k)$ を第 $k$ 段階までの確率空間とし、$M$ を $\mathcal{F}_k$-可測とする。 このとき、任意のパラメータ $q \in [0, 1]$ に対し、以下の条件を充足する拡張確率空間 $(\widetilde{\Omega}, \widetilde{\mathcal{F}}, \widetilde{P})$、可測射影 $\pi:\widetilde{\Omega}\to\Omega_k$、および後段事象 $A_{k+1},\dots,A_n\in\widetilde{\mathcal{F}}$ が存在する。
  1. (分布の保存)任意の $E\in\mathcal{F}_k$ に対し $\widehat{E}:=\pi^{-1}(E)$ と置けば、$\widetilde{P}(\widehat{E})=P_k(E)$ が成立し、 pullback された初期指標 $\widehat{M}:=M\circ\pi$ の分布は $M$ と一致する。
  2. (自由な成功確率)全体成功事象 $\widetilde{S}:=\bigcap_{i=1}^n A_i$ は次を満たす: \[ \widetilde{P}(\widetilde{S}) = q \cdot P_k\left(\bigcap_{i=1}^k A_i\right) \]
Proof. 積測度を用いて明示的に構成する。補助的な確率空間 $(\Omega',\mathcal{F}',P') := (\{0,1\}, 2^{\{0,1\}}, \nu_q)$(ただし $\nu_q(\{1\})=q$)を導入し、拡張空間を \[ (\widetilde{\Omega}, \widetilde{\mathcal{F}}, \widetilde{P}) := (\Omega_k \times \{0,1\},\ \mathcal{F}_k \otimes 2^{\{0,1\}},\ P_k \otimes \nu_q) \] と定義する。射影 $\pi:\widetilde{\Omega}\to\Omega_k$ を $\pi(\omega,b):=\omega$ と設定し、後段事象を $A_{k+1}=\cdots=A_n := \Omega_k\times\{1\}$ と設定すれば、全体成功事象は $\widetilde{S} = \bigl(\cap_{i=1}^k A_i\bigr)\times\{1\}$ となり、 \[ \widetilde{P}(\widetilde{S}) = P_k\!\left(\bigcap_{i=1}^k A_i\right) \cdot \nu_q(\{1\}) = q \cdot P_k\!\left(\bigcap_{i=1}^k A_i\right) \] を得る。これにより、初期情報の固定が後続の成功率を決定しないことが示された。

選抜バイアスによる逆説(Goodhart's Law)

次に、初期指標 $M$ に依拠して候補を選抜する動的なプロセスを考察する。ここでは「指標の改善」が、むしろ最終的な成功確率を毀損するパラドキシカルな状況を厳密に示す。

選抜による期待値逆転
選抜規則を $\theta^\star = \arg\max_{\theta\in\Theta} m(\theta)$ とする。このとき、期待値の意味で指標を改善($\mathbb{E}_{\mu}[m'] > \mathbb{E}_{\mu}[m]$)したにもかかわらず、選抜された候補の真の成功率 $s(\theta^\star)$ が低下する例が存在する。
Proof. $\Theta=\{G,B\}$、$\mu(G)=\mu(B)=\tfrac12$ とし、成功率を $s(G)=1, s(B)=0$ とする。

Baseline: $m(G)=0.9, m(B)=0.8 \implies \theta^\star=G$ ($s=1$)。期待値は $0.85$。
Improved: $m'(G)=0.9, m'(B)=0.95 \implies \theta^\star=B$ ($s=0$)。期待値は $0.925$。

ゆえに、集団全体のスコア改善は選抜後の成功確率の向上を保証しない。

ボトルネック補題

ボトルネックによる上界
後段プロセスの添字集合 $T$ に対し、各段階の条件付き通過確率が $\epsilon$ で抑えられている($\forall j \in T, P(A_j \mid \cap_{i=1}^{j-1} A_i) \le \epsilon$)とする。このとき次が成立する: \[ P(S) \le \epsilon^{|T|} \]
Proof. 連鎖律より $P(S) = P(A_1) \prod_{i=2}^n P(A_i \mid \cap_{l=1}^{i-1} A_l)$ である。各項を $1$ または $\epsilon$ で評価することにより、$P(S) \le \epsilon^{|T|}$ が導かれる。

条件付き肯定性:成功のための必要十分条件

これまでの議論は、無条件な「成功の保証」を否定するものであった。しかし、特定の数理的構造が仮定される場合においては、初期指標の改善は正当化される。以下に、成功を主張するために必要な「正の命題」を提示する。

単調推定量による改善定理
初期指標 $M$ が最終成功確率の条件付き期待値 $P(S|\mathcal{F}_k)$ の単調増加関数($M = f(P(S|\mathcal{F}_k)) + \epsilon$、ただし $f$ は単調増加)としてモデル化できるとする。 このとき、量子計算等の手法により推定誤差 $\epsilon$ の分散が縮小し、かつ真の成功確率が高い候補を識別する能力(識別能)が向上する場合、選抜後の集合における成功確率の期待値は増大する。

この定理は、「量子手法が有効である」と主張するための最低限の数理的要件(ゲート)となる。

監査プロトコル:PASS/FAIL基準

以上の定理群より、初期指標の改善が全体成功率に寄与するための要件は、以下の3点の監査項目(Checklist)として厳密に定義される。これらは、技術導入における「成功」を主張するための必須条件である。

A: 同定監査(Identification Audit)

初期指標 $F_k$ と下流成功 $S$ の間に、統計的因果関係または構造的な結合が明示されているか?(定理1の非同定性を回避する条件)

B: Goodhart耐性監査(Robustness Audit)

指標の最大化(スコア最適化)を行った際に、下流成功率が毀損される「逆転領域」を排除する制約条件が組み込まれているか?(定理2の回避条件)

C: 上界監査(Bottleneck Audit)

計算速度ではなく、プロセスの成功率を律速している「ボトルネック段階」に対し、提案手法が具体的にどのような量的突破($\epsilon$ の改善)をもたらすかの実測値があるか?(補題のクリア条件)

PASS(主張可能) 上記の3条件全てを満たす場合、「量子(または新計算手法)が創薬成功率に効く」と断言してよい。この場合、定理3により成功確率の向上が数理的に支持される。
FAIL(主張不能) どれか一つでも欠ける場合、「必然性は言えない」。ただし「局所KPIには効く可能性」は残るが、それを「創薬の成功」と換言することは許されない。

監査の結語

量子計算が創薬“全体の成功率”を押し上げると主張するには、(i) 同定、(ii) Goodhart耐性、(iii) 律速上界の突破、の3条件が必要である。これらを満たさない主張は一般化であり、本稿の範囲では支持できない。一方で、これらの条件を満たす設計・実測が提示されるなら、量子手法は“局所KPI”ではなく“成功率”への寄与として主張可能になる。

参考文献

代理指標最適化・Reward Hacking
選抜バイアス・Winner's Curse
創薬プロセスの実証分析・ボトルネック
量子計算と創薬の現状
数学的基礎
【本監査レポートの性質について】 本稿は、純粋数学的な真理探究ではなく、産業実装における「システムとしての説明責任(Accountability)」と「有限リソース下での検証可能性(Auditability)」を評価基準とした、工学的監査レポートです。数理モデルは、現実の運用リスクを最大限に可視化するために構成されています。
GhostDrift数理研究所 ホームページへ戻る